speech


英国王のスピーチ The King's Speech】を観て来た。
オレにとっては人生で1度、巡り会えるかどうかのとても大切な映画でした。ちょっと思い入れが大き過ぎて、うまく書けるかどうかわかんないけど、レビューを書きます。まずはあらすじから。
 
ジョージ6世は、幼い頃から吃音というコンプレックスを抱えていたため、英国王ジョージ5世の次男という華々しい生い立ちでありながら、人前に出ることを嫌う内気な性格となり、いつも自分に自信が持てないでいた。厳格な父はそんな息子を許さず、様々な式典のスピーチを容赦なく命じる。ジョージは妻のエリザベスに付き添われて、何人もの言語聴覚士を訪ねるが一向に改善しない。
ある日、エリザベスはスピーチ矯正の専門家・ライオネルのもとへ夫を連れていく。ライオネルは、診察室では私たちは平等だと宣言、王太子を愛称で呼び、ヘビースモーカーのジョージに禁煙させる。さらに、大音量の音楽が流れるヘッドホンをつけ、シェイクスピアを朗読するという奇妙な実験を行うが、ジョージはこの治療は自分には合わないと告げ、足早に立ち去ってしまう。だがクリスマス放送のスピーチがまたしても失敗に終わったジョージは、ライオネルに渡された朗読の録音レコードを聞いて驚く。音楽で聞こえなかった自分の声が一度もつまることなく滑らかなのだ。再びライオネルを訪ねたジョージは、その日から彼の指導のもとユニークなレッスンに励むのだった。
1936年、ジョージ5世が亡くなり長男のエドワード8世が即位する。そんな中、かねてからアメリカ人で離婚暦のあるウォリス・シンプソンと交際していたエドワードが王位か恋かの選択を迫られる。彼は恋を選び、ジョージは望まぬ座に就くが、大切な王位継承評議会のスピーチで大失敗。だがジョージはライオネルの助けを借り、戴冠式のスピーチは成功に終わる。しかし、本当の王になるための真の試練はこれからだった。ヒトラーの率いるナチスドイツとの開戦直前、不安に揺れる国民は王の言葉を待ち望んでいた。王は国民の心をひとつにするため、世紀のスピーチに挑む。』goo映画紹介より抜粋
 
 
実はオレも吃音があります。今までの人生で失敗せずに喋れたことが一度もありません。今、一緒に働いてる同僚や、ミセコ時代のオレを知ってる人にとっては意外な告白だと思うかもしれませんが、今でも全然治ってません。相変わらず人前で喋るのがコワいし、消えてしまいたくなります。たとえそれが一対一の時でも一緒。「あ、この人どもってる」と思われるのが恐怖以外の何物でもありません。
 
もっとも幼い記憶は幼稚園の頃。月がとてもキレイだったある夜、親に「月が見えるよ」と伝えようとして、何故か「月」の「つ」が口から出て来ないことに自分自身で動揺した気持ちを今でも鮮明に思い出せます。あわせて、その様子を察知した親が「しっかり言いなさい。相手に分かるように。」と詰め寄ってきたのも、その時の様子を今でもシッカリと覚えてます。それ以降の人生、オレは一度もちゃんと喋れた記憶がありません。
 
小学校の国語の授業は本当に苦しかったです。座ってる席順に教科書を読まさせる時間。目で見えてる文字はちゃんと理解できてるし、その文字はどんな音で発音するべきなのかも知ってるのに、口から言葉は出て来ない。そして、その喉が妙な音で鳴るだけの無言の時間を居心地悪く共有させられてる級友たちの静かなプレッシャー。
中学校にあがり、授業の科目に英語が加わるとその苦痛も倍増でした。単語の発音も、アクセントも、文法も全部分かってるのに、口から音が出ない。ちゃんと読むまで10分も教科書持って立たされたままなんてこともありました。そしてやはり級友たちの憐れみの目と、無言のプレッシャー、クスクスという笑い声。授業が終わった後は、消えてしまいたい気持ちで自分の席でうつむいてじっと座っていたものです。
 
だから今になってみれば、言葉で喋らなくても音で表現できる音楽、言葉でコミュニケーションを取るチームプレイをしなくてもよい水泳、その2つにオレは進んだんだなぁと思うし。
 
この映画のように特別な治療を受けたり、喋り方教室に通ったわけではないので、吃音はずっと治らないまま。そんな経験を積んでいくうちにオレは「ごまかしながら喋る」ことを覚えていきました。本当に伝えたいニュアンスの言葉とは別の「喋りやすい」言葉を選んで喋る。いくら途中まで流暢に喋れてても、吃音は不意に出ます。とくに文章を一旦「、」や「。」で終わらせた後は言葉が出にくい。次に喋ろうと脳内に準備してた言葉を飲み込んで、再変換した別のニュアンスの言葉で喋る。おかげで語彙選択能力は人並み以上に高くなって、文章を書くという表現方法は得意になったけど。でも、そんなごまかしをしてるうちに、本当に伝えたいこととは微妙にニュアンスの違った内容が相手に伝わってしまう。言葉をごまかすということは、結果的に自分の気持ちをごまかしてしまうコトなんだと寂しく思いました。
 
今でも吃音は治ってません。周囲からみたらちょっとじゃ分からないくらいに瞬間で言葉をごまかすスキルは身につけましたが。その大きなコンプレックスを抱えたまま、会議の進行をしたり、交渉事をしたり、カウンセリングしたり、講義をしたりしなければならない今の仕事に就いてます。本当はすごくツラいんだよ。
 
そんなオレだから、この映画は正直震えながら観ました。スピーチを失敗した時のいたたまれなさ、所在感のなさ。周囲の人々が次々に自分から目を逸らしていく孤独感。学校の頃に授業中に味わったあの恐怖が生々しく再現されてたと言うか…。だからこそ、ラストのスピーチシーンは演説終了後に自然と拍手してしまったし、本気で泣いてしまった。第二次世界大戦の開戦を告げるスピーチというすごくグローバルな意味を持つスピーチなんだけど、オレにとってはそんなデカすぎる意味なんてどーでもよくて、ただ一人の吃音の男が人前で胸を張って喋ったというすごくパーソナルで、ミニマムな価値を見せつけられて涙腺が緩んだ。
 
今までの人生で自分の吃音を気にせず喋れる相手が2人だけ居ました。どうしてこの2人には気にせず話せたのか不思議ですが、「オレの言葉をちゃんと聞いてくれてる」って安心感があったからなのかな。でも、オレが未熟だったゆえに、その2人とも今はオレと別の道を歩んでます。この2人には、一番素直なオレの姿を見てくれててありがとうって本当に心から感謝してます。ま、そのうちの1人には「え?シュウって吃音あったっけ?」って言われちゃいましたが(苦笑 キミと喋る時もめっちゃドモってたよ、オレ。
 
でも、結局オレは自分の吃音をごまかすスキルは身につけたけど、吃音を克服して胸張って喋れるようになったわけじゃない。あの「月が見えるよ」の一言でさえ親にキチンと伝えられず怯えてる子どもがまだ、自分の中に居続けてます。この子どもがいつか胸張って笑顔で「月が見えるよ」って言えるようになったらイイな。その方法が分かるまでは、オレ、自分の言葉をごまかして、自分の気持ちをごまかし続けるんだろうなぁ。
そんな自分の中の子どもを再確認した映画。
 

公式サイト → http://kingsspeech.gaga.ne.jp/