ホラーで純愛で異常性愛

京山ねえさんと昼メシにカツ丼頬張りざるうどん啜りながら、ここ最近の妻が夫を殺しただの兄が妹を殺しただのって事件の裏に潜む犯罪心理分析とプロファイリング論議に花を咲かせました(オカマ2人でそんなもんに花を咲かせるなよ)。食後に日本茶飲みつつ犯罪者の深層心理や異常性欲求について延々を喋ってたら京山チャンから「この本オモロイから読んでみ」って一冊の本をいただきました。
●『殺戮にいたる病』 我孫子武丸  (講談社文庫)
自分が殺害した女性と性交を持つ事でしか真実の愛を体感できないが故に次々と猟奇殺人を繰り返す主人公と、自分の息子が猟奇殺人犯なのではないかと疑い部屋のゴミ箱を漁ったり尾行したりしながら絶望感に打ちひしがれる過干渉の母親、そして被害者女性の妹と共に犯人探しに乗り出す既に現役を降りた退職後の老刑事。この主人公、母親、老刑事の3人の視点と時間軸の交錯で描かれる物語。以下、若干ネタバレあり。
ネクロフィリアっていう衝撃度の強いテーマで描かれているため、執拗なほどに描写される殺戮場面や陵辱後の死体解体場面、果てはその後の肉塊をもってする主人公の自慰場面など凄惨を極めるが、そこには常に異常性欲求でしか愛を感じ得ない主人公の悲哀や切なさも同居している。たびたび泣くのである、主人公が。ある時はホテルで惨殺に及び死体を解体する為の包丁を購入し再度ホテルに帰ったきた主人公がその死体に「ただいま」と声をかけ、死体である彼女が自分をずっと待っていてくれたかのような嬉しさのあまり再び性交に及びながら涙を流す。ある時は愛する女性とずっと一緒にいたいからと切り取り持ち帰った乳房が主人公の意に反して次第に朽ち果て腐敗して行くのを悲しく見ながら恋人との永遠の別れを感じ取り涙を流す。次々に愛する死体を手に入れてもどれもこれも腐っていくばかりで、彼には思い出しか残らずその記憶さえも時間が経つと共に薄められて行ってしまい、結局彼には喪失感が残るだけ。何度も何度も恋人を失わざるをえない。そして「何故俺だけがこんな目にあわなければならないのだろう。頭がからっぽで、真の愛のなんかも知らないような連中は能天気に生きているというのに、この俺は、愛に目覚めてしまったがゆえにこんな苦しみを味わわなければいけない。不公平だ。俺はこうしていつまでもいつまでも永遠に愛を失い続けなければいけいないのだろうか。」と自らが撮影した殺戮シーンのビデオを見ながら涙を流しつつ独白する。死体としか愛を交わせない彼にとって、もういなくなってしまった恋人との思い出がたっぷり詰まったアルバムを眺めるかの如き気持ちなのだろう。こんなにも異様な性愛描写にも関わらず、なんだか読んでるこっちまで感情移入しちゃって極めて純度の高い愛の物語を読んでるような気になっちゃった。
でも、そんな純愛も最終章で一変。この物語がホラーでも純愛でもない、歴然たる叙述ミステリーであったことを不意に金槌で頭を叩かれたが如き衝撃を持って思い知らされる。スゴイ!ネクロフィリアというスキャンダラスなスパイスの裏には極めて巧妙な叙述ミステリーとしてのトリックが張り巡らされていたのだ。比較的本をよく読むオレですが、この叙述トリック物にはあまり縁がなく、今まで本格的に読んだのって筒井康隆の「ロートレック荘事件」くらいだったので、よけい呆然となりました。もし映画化するならキャスティングは誰かなーと思いながら読んでましたが映像化不可能!無理!(オレ的には前半読んでるうちは、この死体を愛し泣き悩む主人公は逆に猟奇的なモノを一切感じさせない無垢で無邪気な笑顔のできるツマブキあたりが適役だと思ってましたが、ツマブキじゃ絶対にムリ!残念!)
グロいのが平気な人は是非コレ読んで欲しい。ミステリーとしては傑作。読んだあと肉料理とか食べれんくなるかもしれんけど。とくに「血と死と愛と性が見れる映画がスキ」と言ってるCくんあたりに本当オススメ。あとエグ社長、殺し屋1とかで共感してくれたアンタは絶対スキな筈。 ところで、この我孫子武丸って人、ゲーム「かまいたちの夜」のシナリオ担当の人なのね。
てゆーか、主人公が女性を絞殺し乳房を削ぎ取り陰部を抉り取りながら、なぜか繰り返し繰り返し岡村孝子の「夢をあきらめないで」をポータブルCDプレーヤーで聞くので(イヤホンを片方は自分の耳へそしてもう片方を死体の耳へセットし聞いている)、残虐極まりない描写と前後してこの「夢をあきらめないで」の歌詞が何度も引用されるわけですが、岡村孝子の事務所はよく使用許可を出したなって感心します。オレが岡村孝子だったら絶対イヤです、使用許可出しません。もしかしてこの「殺戮にいたる病」という作品制作に関わる全てのエピソードの中で最も素晴らしき英断をしたのは、この凄惨たるプロットの小説に自分のソロ代表曲の歌詞の使用許可を出した岡村孝子なのではないだろうかとさえ思う。
そして、フと思った。このネクロフィリアってのは殺人自体に違法性があるから犯罪になるのである。しかし、心理学的にはこのネクロフィリア(つまり死体性愛)も、嗜虐性愛(サディズム)も被虐性愛(マゾヒズム)も拝物愛(フェティシズム)もそしてオレら同性愛も、同じ異常性愛としてカテゴライズされているのである。このカテゴライズが間違っているとかどうとかってそーゆー問題はとりあえず置いといて、オレらが「だって男の子しか愛せないんだもん」と言うのと同じく「だって死体しか愛せないんだもん」と言う人も世の中には絶対に存在しているのだ。その悲哀って何だかちょっと分かる気もせんでもない。よね? ただ、すべて性交って両者の合意のもとってのが大前提である。「わたしは嗜虐性愛です」って人と「わたしは被虐性愛です」って人同士なら何の問題も無くお互いの性欲求を満たし合えば良い。SMプレイ中にSがMをビンタしたからって何の問題もナイが、日常生活で突然ビンタしたら傷害罪だ。同性愛の場合だってオレはタチですって人は、オレはウケですって人とヤればイイ。その互いのインフォームドコンセントが出来ずに性交に及んだ場合、軋轢が生じそれが時として犯罪となりうるのだ(たとえばホモのオッサンが通勤電車でノンケに痴漢して捕まっちゃったり、銭湯でハッテンしようとして捕まっちゃったり、ベランダで自分の全裸をライトアップして捕まっちゃったり)。 つまり犯罪行為でしか性的欲求を満たせないジャンルの方々が本当に気の毒なのだ。同性愛だって中世ヨーロッパでは違法で、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも何度か捕まってたわけだしね。時代が時代ならオレらだって投獄されてたかもしれないって事だ。ネクロフィアの人たちも「あたし殺されることでしか性的欲求を満たされないの」って人がいればイイんだけど、基本的にそーゆー人っていないよね。もしくはそーゆー性愛欲求であるが故にホント既に死んじゃってるか。同じようなのでタナトス・コンプレックス(死の本能/願望)ってもあるけど、それとはまたちょっと違うしなー。結局、そーゆー人たちにとって、この世ってのはどうしたって生きづらい世界なんだろうね。

殺戮にいたる病 (講談社文庫)

殺戮にいたる病 (講談社文庫)