歌詞はダブルミーニング

シネコンに行こうかどうしようかと悩んだ挙げ句、結局は京都より出稼ぎ帰省中の京山チャンとお茶したり鶏肉(ケンタッキー)食ったり玉子焼き食ったりアズズ行ったりしてホゲホゲと遊んでました。
そんな大ホゲ道中で一青窈ハナミズキ』の歌詞考察を延々としましたよ。何故この歌が結婚式の定番になってるのか全く持って意味不明です。結婚式でコレを歌う人って「君と好きな人が百年続きますように」とか「母の日になればミズキの葉贈って下さい」とか、歌詞のほんの一部にしか目が行ってないんじゃないでしょうか。それよりも「僕から気持ちは重すぎて」とか「一緒にわたるにはきっと船が沈んじゃう」とか「どうぞゆきなさい お先にゆきなさい」とか「僕の我慢がいつか実を結び果てない波がちゃんと止まりますように」とか「待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ」とか、歌の主人公としての視点は明らかに"日陰者"の印象が強いんですけど。表に出てはイケナイと言うか。極端な表現をすれば、不具者と言うか、フリークスと言うか。オペラ座の怪人的な恋愛とも言えるし、エレファントマン的な生き方とも言える。ひょっとしたらゲイからノンケへの恋愛感情とも言えるかも。だって「僕の君を想う気持ちはとても重過ぎるから、君が幸せになりたいなら僕のことはおいて行ってイイよ。もちろん僕を待たなくてもイイし、その後に僕がどうなったかなんて知らなくてもイイよ」って、言ってるようなもんでしょ。歌詞文末のほとんどが「〜○○しますように」と祈りにも近いほどの願いを託す表現である。想いを遂げれない「絶望」と、それでも微かな期待への「希望」が同居し、成就し得ないその想いを弔おうとする足掻き。その相反する思いが混在しているが故に曲中の主人公の主張は歌詞中に於いてジレンマを発生させる。つまり"ダブルミーニング"。YESともNOとも取る事が可能な"ダブルミーニング"はそのメッセージの受け手を混乱させるため、子供を育てる上では極めて禁じ手とされている。 さらに伸ばしの音では一般的に喉を締め付け発声しにくい「イ音」が多用されて、その語感的な響きからも全体的に苦しい印象を醸し出していることを否めない。
結局この曲全体の印象としては歌詞自体の「幸せそうだけど不幸」であり「希望を持ちつつも絶望」であるダブルミーニング、さらにはイ音の多用により「音」の響きとしても苦しさを助長することで、より一層の苦悶のオーラを発していると言える。そんな事を色々と考えてるとやっぱりこの曲って結婚式で歌っちゃイケナイ歌なんじゃないの?って気になって来るんですけど。他にこの曲と全く同じニオイのする歌としてはイエローモンキーの『球根』が挙げられるのではなかろうか。「許されない/誰にも喜ばれない/お前が咲くならば僕は穴掘ろう」だもんね。極めて日陰者的なセンテンス。 (もっとも一青窈は9.11を題材に書いたって言ってるらしーケドね。とゆー事は、死にゆく者から生きてゆく者へ想いを託す歌って事か?う〜ん…)
そんな事を頭の隅に残しつつ歌詞をどうぞ。(それにしても、アンガールズ山根がやってた一青窈のモノマネは顔似過ぎてて笑い死にするかと思ったよ、はねトビ)
 
 
 空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと
 どうか来てほしい 水際まで来てほしい
 つぼみをあげよう 庭のハナミズキ
 
 薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように
 君と好きな人が百年続きますように
 
 夏は暑過ぎて 僕から気持ちは重すぎて
 一緒にわたるには きっと船が沈んじゃう
 どうぞゆきなさい お先にゆきなさい
 
 僕の我慢がいつか実を結び果てない波がちゃんと止まりますように
 君とすきな人が 百年続きますように
 
 ひらり蝶々を追いかけて白い帆を揚げて
 母の日になれば ミズキの葉、贈って下さい
 待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ
 
 薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように
 君と好きな人が 百年続きますように
 
 僕の我慢がいつか実を結び果てない波がちゃんと止まりますように
 君と好きな人が 百年続きますように
 
 君と好きな人が 百年続きますように
 

ハナミズキ

ハナミズキ