親として、子として。

dogs2006-08-11

京山チャンが臨時帰省しているので昼からお好み焼き食いながら久しぶりのお釜ミーティングでした。我らが集うと毎度のことながら相変わらずの奇天烈っぷりが満開で分裂していく会話は健在でした。あまりにも話題にあがるテーマが多岐に渡り過ぎて何を喋ったのか半分以上も覚えていない状態ですが、モラル、儒教、民族性、カースト制度田口ランディー、永遠と親子関係、ゲイバー、京都とインド、面談と面接の相違、などなど全力で脳内フォルダーを開けては閉め開けては閉め、記憶の片隅にこびり付いた知識を何とかなんとか引き剥がし、負けじと喋りまくりました。
 
特にゲイとしての価値観と親子関係。ゲイの子って親子関係をうまく築けない子が本当に多いと思う。オレももちろんその一人。なんだろうね、親子関係って。この親子関係の居心地の悪さに耐えきれず高校卒業したら速攻で家を出たオレです。できればお互い音信不通とかになっちゃえば楽なのになぁとか思う自分もいて、それってすごくヒドい感情なんだろうけど実際そう思う自分はいるわけで。多分、自分がゲイだっていう根源的な部分で「ウソ」をつき続けてるからなのかなぁ。自慢じゃないんだけどオレ反抗期って無かったんですよ。親にワガママなんかは言わなかったし本音でぶつかって親子喧嘩なんてもちろんしなかった。多分ゲイだってことを一生隠してウソをつき続ける対象になるであろう親に、申し訳なくてワガママも言えないし喧嘩も出来なかったんだと思う。オレの親は凄くもっともらしい理論を正面切って言う人だったので、「ウソ」という後ろ暗い感情がオレの中にあるからなんだろうけど。正し過ぎる理論って「本当の自分」を出せなくなる要因になるんですね。そういう意味ではオレって家族なんかより、赤の他人である恋人に心を開いてる割合のほうが断然多い。親とは絶対に喧嘩しないしワガママ言えないけど、恋人とは喧嘩もするしワガママも言える。本当の自分の姿を見せてるのは明らかに家族よりも恋人だなぁと思います。一般的にはそれってすごく不自然なんだよなぁと思うのですが自分にとっては自然なんですよ。
 
そう思う反面、最近は「こども」っていうものにもの凄く興味が湧いて仕方ありません。身の回りが出産ラッシュだっていうのもあるのですが、赤ちゃんに接する機会が多いんですよ。愛おしいのと気持ち悪いという感情がものすごい同時に湧き起こるんですね。うまく言えないのですが、お母さんに抱かれてオッパイを飲んでる赤ちゃんを眺めてると「やっぱり親子関係って永遠のもので互いの間にあるのは無償の愛なんだろうな」と思わざるを得ない。それがもの凄いジレンマなんです。今まで自分の人生の中で実感できていなかったものを目の前に突きつけられて「それが当たり前なんだ」と思い知らされてるみたいで。でも自分にとって「あるはずのないものが存在している」という正体不明感がとても気持ち悪い。この二つのジレンマ。なんなんでしょーね、コレ。オレはゲイだから一生自分のこどもを抱く事はできないし、「親」が自分のこどもに対してどんな感情を持つのか実体験することは出来ない。それがちょっと寂しい反面、ホッとしてしまうところもある。つまり自分にこどもができることによって「やっぱり親子関係は永遠のもので互いの間にあるのは無償の愛なんだろうな」とボンヤリ思ってただけのものが、実感を持って「あるはずのないと思っていたものが存在する」と認めてしまうのがコワイと言うか…。たとえば幽霊が出ると有名な心霊スポットがあるとする。そこに行けば本当に幽霊が存在するのか存在しないのか分かるんだけど、もし本当に幽霊に出会ってしまったらコワイから心霊スポットに行く事ができない、みたいな。(変な喩えで伝わりにくいね、こりゃ)
でも多分、結局は「やっぱり親子関係って永遠のもので互いの間にあるのは無償の愛なんだろうな」ってのに憧れてるんだろうなって思います、自分が。
 
そんなことを延々とお好み焼き食いながら。京山チャンは扇子を優雅に振り回しながら。「でも結局はニンゲンの倫理観念が根源的なもんで絶対的もんだって考えがアリがナシかって言うと、ナシよね〜」とか極めてディープなテーマを極めてライトな感じでまとめられちゃった。そんな軽〜い会話だったのですが、いざ文章にすると突然何だかとても深刻な内容な気がしてきて、推敲しつつ書くのに1時間程もかかっちゃった。オレ自身が消化しきれていないテーマだからってのもあるんだけど。しかも何だかよく分からない、とても伝わりにくい文章ですね、こりゃ。たったこれだけの文章量にも関わらず。(金スマみながら書いてるからだってゆー話もある)