life


平成23年3月16日から26日まで、協力要請を受けて医療班として被災地入りしてました。場所は宮城県沿岸部の某町。いくつかの避難所をベースキャンプとして駐留し、毎日点在する避難所で巡回診療を行う。
もちろん岡山から宮城まで行く交通手段が無いので移動はすべて車。大切な人たちが準備してくれたお守りやおにぎりを持って病院を出ました。車をただひたすら走らせる。天候は悪く、京都〜滋賀あたりでは大雪となり走行速度制限も。午前3時になっても目的地はまだ遠い。もう何時間運転したのか分からないくらい走った。緊急車輌以外乗り入れることが出来なくなった高速道路のSAには陸上自衛隊と物資運搬車輌しかいない。北陸の夜中の寒さは身体の芯まで届く。最後のおにぎりを食べたら、冷えきってたけど美味しかった。節電のため薄暗いSAの食堂。寝袋に包まって、同じように床で寝ている人たちと一緒に仮眠を取った後は、朝から原発を越えてさらに北上し被災地入りをする。寒くて寝れないケド、少しでも眠る。
 
出発から一日、ようやく到達した被災地は想像を絶する状況。沿岸部の町は根こそぎ地震津波に攫われて跡形も無く壊滅してました。自衛隊によってようやく姿も見せることができるようになった道路以外は瓦礫の山。丈夫なはずのコンクリートの建物も骨組みだけを残して原型を留めず、未だ引くことの無い津波の海水が各箇所に貯まっている。
点在する避難所はどこも過酷な環境。電気も水道もガスも断絶し、多いところでは数百人が避難している。大切な人を目の前で津波に攫われた人、助けを叫ぶ声を背に走って命からがら逃げた人、倒壊したビルに閉じ込められたまま助け出せずにその場を後にした人。みんな各々が大きな何かを背負って日々を過ごしている。ただただ、自分の大切な人が生きてるはずだと信じて避難所で待ち続ける人。自ら行動して各避難所を探し続けている人。遺体安置所に足を運ぶ人はまだ少ないらしい。だって自分の大切な人は生きてるはずだと信じているから。
 
治療中断した患者さんの状況も非常に厳しい。続いている大きな余震の恐怖、ストレスフルな避難環境、治療薬も手に入らないまま症状は悪化し、急性増悪する患者さんも少なくない。ベースキャンプに帰ったあとも救急対応で出向くことも何度かあった。電気もない状況で点滴ルートを確保する難しさ。ある救急搬送した患者さんの子どもはオレの腕の中でずっと泣いていた。その子なりに自分の親の病状が悪くなるのを側に居て見ながらずっと耐えてガンバっていたらしい。ずっと抱っこしていたその子の体の震えと体温がまだ感覚としてオレの腕にずっと残っている。
 
一緒に行動していた地元の保健師さんが「わたしの旦那もまだ見つかってないんですよ…意外と泣けないもんですね…全部が終わった時に泣けるのかな…」と呟きました。この人は、今一番逢いたい人にまだ逢えていない。生きてるか死んでるかも分からない。それでも地域の住民や患者さんのために必死に歯をくいしばって走り続けている。机の上だけでメンタルヘルスを提唱している大学のお偉い教授たちは「自分がつらいことに気付いていない人はキチンと気付かせてあげることが大切」だなんて勝手なことを声も高らかに言い続けている。たぶん、本当はそんなんじゃない。今、オレらにできることはそんなんじゃなくて、必死に耐えている人たちと一緒に動いて、走って、耐えて、そしていつか笑える日が来たら一緒に笑うことだと思う。オレは改めて今回のことで、ずっと現場に居たいと思った。出世なんかしなくていい。いつまでも誰かのために現場で走り続けなきゃ、この仕事をしてる意味が無い。そんなことを思いながら保健師さんと車に乗っていると、車内FMから地震情報に続いて中島みゆき「糸」が流れた。ぐっと頬の内側を噛み締めて涙をこらえた。だって、横にいるこの人は今も泣かずに走り続けているから。その横でオレが先に泣いちゃいけない。
 
今回、オレはこの被災した町で見た光景、出逢った人々、経験したこと全てを一生忘れないと思う。
電気があって、水も出て、暖かいご飯が食べれて、大切な人たちが笑顔で自分のまわりに居てくれることが、どれだけ幸せなことか。でも、オレらはこの派遣から帰ったら今まで通りの生活に戻るけど、あの町の人たちは今も同じ環境で暮らしてるんだと思ったらすごく胸が苦しくなる。どうか、どうか神様。この世のみんなが笑顔で暮らせる日が早く訪れますように。