ネタバレの谷のナウシカ

またまたrockくんが貸してくれた『風の谷のナウシカ』全7巻読了(いつも色々と貸してくれてアリガトウねrockくん)。かれこれナウシカを知り、メーヴェのようにブランコに乗り「風を捕まえた!」とかアホなことしてた頃から20年近く経つわけですが、まともにマンガを読んだのは初めてでした。その初めて読んだ感想は「なんでもっと早く読まなかったんだろう」と大後悔すると同時に腰が抜ける程のオモシロさでした。(以下ネタバレ若干あるよ)
 
宮崎駿の真骨頂はここに見つけたり。この徹底した世界観の作り込みたるや何たることか。彼はホント逆に映画とかもぅ作んないほうがイイよ。彼はこのナウシカのマンガ一本でこそ正当な評価が得られると思う。映画って凄く希釈されてる。しかも万人に対しての共通言語が多用されてるが故に変な誤解を生んでいるとしか思えない。その極端なモノが宮崎駿ロリコン説。たしかにマンガを読んでみても彼が女性に対して何らかのコンプレックスを持っていることは容易に感じ取れるが、それが少女趣味であったりロリコンであるという捉え方は大きな間違いではないのだろうか。どっちかって言うとロリコンと言うよりグレートマザー信仰。(だからおそらく映画エヴァンゲリオン庵野秀明綾波レイを生命全体のグレートマザーとして超巨大化させたのを宮崎駿はさぞかし悔しい思いで観たのではないだろうか。)実際にマンガ版ナウシカ宮崎駿は少女であるナウシカより女性軍人クシャナを思い入れたっぷりに描いているような気がしてならない。
かくゆうオレも今までは宮崎駿って絶対にロリコンだよねーと言って憚らなかったのであるが、このマンガ版ナウシカを読んで一変した。宮崎駿の映画を観てやたら少女がクローズアップされて描かれているのは、"少女"という媒体が万人に対して影響力のある共通言語であるからなのではなかろうか。海外のある国では信号を無視して歩行者が横断歩道を渡り交通事故に遭ってしまうことが多発していた。そこで政府は歩行者信号に書かれている絵を(赤信号には止まってる姿で、青信号には歩いてる姿で描かれているアレね)成人男性の絵から少女の絵に変えたところ信号無視をする人が減り、その結果として歩行者の交通事故が激減したと言う。おそらくこの"少女"という普遍的なツールは人の深層心理に何かしらの影響を与え、そのツールとしての"少女"が持っている何らかのメッセージを、見ている者の心へ素直に受け入れさせる作用があるのではないだろうか。そのツールとしての"少女"が持つ影響力を認識した上で、宮崎駿はそのツールを利用しているに過ぎないのだと思う。さらに映画では前面に押し出されていたエコロジー感も、万人受けする共通言語でしかなかったのではなかろうか。マンガ版ではこのエコロジー感はすっかり息を潜めてしまっている。
つまり、映画というある程度の興行成績を収め世間的にも高い評価を得なければならない媒体では「無垢でいたいけな少女が環境や自然を守るために自らの危険を顧みず侵略者と戦う自己犠牲の物語」という分かり易いプロットを構築しそのメッセージ色を強く押し出す事が必要だったのだ。そのおかげで確かに映画は大成功し、堤幸彦監督トリックでも野際陽子に「何度目だナウシカ」と習字されてしまうほどのテレビ再放送数を打ち立てる名作となった。しかし、その成功は逆に世間一般に宮崎駿のイメージをも固定させてしまった。ナウシカの成功は諸刃の剣だったと言うわけである。しかもそれから以後の次々と同じようなプロットで作成され続けるジブリ映画の成功のおかげで本来の宮崎駿が持つ"毒"が希釈されきってしまった。次々と世に送り出されるジブリ映画は目くらまし。作れば作るほど本来の宮崎駿テイストってのは世の中に伝わりにくくなってしまったのではなかろうか。中でもノスタルジーを押し出したトトロ、センチメンタルを押し出した魔女の宅急便、冒険活劇を押し出した紅の豚などが目くらましの最たる物だ。逆にナウシカもののけ姫千と千尋の神隠しなどは纏めて考察すると宮崎駿を読み解くうえで重要なポイントとなる作品で、特にもののけ姫のたたり神や千と千尋カオナシの存在が肝だろう。
 
実際このマンガ版では主人公ナウシカなんかよりも、それぞれマイノリティーを抱えフリークスとして登場する各部族や蟲たちのほうが断然オレには輝いて見える。実はオレも一番感情移入が出来たのはナウシカや風の谷の人々ではなく、卑しい身分として登場する蟲使いたち。(彼らはこの入れ替わり登場人物の多い物語の中で冒頭からラスト大団円まで一貫して登場していることからも、宮崎駿自身の思い入れも大きいのではなかろうかと思われる。そして何故かこれだけ登場しているにも関わらず映画には全く登場しないキャラクターたちである。) 行く先々で虐げられ正当な扱いを受けられない彼らは、どことなくオレらゲイの存在とも似ている。実際、蟲使いたちが酒場で「お金はありますから」と酒を買おうとしたが忌み嫌われ酒場を追い出される場面では、思わずプリシラドラァグクイーンが酒場で不当な扱いを受けて涙するシーンを思い出して、オレまで涙ぐんじゃったよ。(その後、地べたに座り込み落ち込んでる蟲使いたちの姿は更に泣ける) 最近、ビジネスホテルのダブルに男2人で泊まろうとして正当な理由無く断られたって報道があったけど、まさにソレだ。 ひょっとしたら宮崎駿自身もこの蟲使いたちに自分を強く支持してくれているオタクたちをダブらせていたのかもしれない。彼らもまたある意味その特異な出で立ちや行動で正当な理由無く忌み嫌われていたりする。ハッ!とゆーことはオレはゲイでオタクでって、こりゃダブルマイノリティーだわ!やだ、世の中って生きづら〜い。(←全然生きづらそうにない)
そしてマンガ版ナウシカの醍醐味は独特な世界観を遺憾なく発揮させた兵法にある。基本的にこのマンガ版ナウシカは映画の様なメッセージ物としての内容を期待して読むべきではなく、むしろBASARAや三国志のようは国取り合戦として血湧き肉踊る群雄割拠物語を期待し読むのが適切な読み方ではないだろうかとさえ思う。その群雄割拠の中でそれぞれの部族がお互いのマイノリティーを持ってぶつかり合う。そこにこそ大きな魅力がある。
 
でも一番泣いたのはテトが死ぬ場面でした。その場面読んでる時にちょうどうちのネコがオレの膝の上で丸まってこんこんと眠っていたので、よけいにこの小さな生き物が死ぬってことが悲しくて仕方無くなってしまった。思わずネコをギュッっとしたらガブリと噛まれてフニャーと鳴いて逃げられた。ナウシカのようにはいきませんな。(@ホラ、こわくない)
ただ、このマンガって82年から94年まで12年にも渡って連載されとったにも関わらず単行本7冊分にしかならないとは一体なんたることか。アニメージュに連載されとったらしいけど1ヶ月にはたして何頁ずつ描かれとったのが非常に気になるところです。
とか言いつつコレだけ熱くナウシカ語っておきながらも、エンターテイメント性を重視するオレとしては一番好きな宮崎作品って実はラピュタだったりするんだけどね。バルス!(@目が、目がぁ〜〜)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)